2013年1月7日月曜日

2013・1・7 

Henri Julien Félix Rousseau

2013年がまた今年として始まって7日が過ぎた。しばらくshironezuもuramadoも書くことが出来ていなかった。文章を書く時間というのはわたしにとっては何か特別な意味を持っていて、頭を整理してゆく様な、若しくは生産という二つの両極状況が重なり合う不思議な時間といえる。少なくとも絵を描く時に整理はしない。
  

今年は明けてから実家に帰省するでも無く、とにかく丸2日は自宅で一人、寝たい時に寝、食べたい時に食べ、こう書いてみると、普段の自身の生活と何が違うのだと言いたくなるところだが、そうしているのがお正月というところが重要なのだ。お正月に何も進歩的な事をしないところが重要なのだ。言い方変えればただの寝正月でもある。自宅マンションでは父が取り付けてくれたガスファンヒーターのお陰で、この年始はリビングにコタツが登場せず、服装も軽装備でグレングールドのバッハを聴いたり(優雅なかんじがするがマイナーの曲、短調の1曲をひたすらリピートで聴いたりなので優雅でも何でもない)、正月番組を観る気にはさらさらなれず、Jcomで放映されている映画を垂れ流しで観たりしていた。ピアノも久しぶりに2時間以上弾いた。自宅ですることで思いつくことは一通りしてしまうと人間本を読む。選択の余地無くそんな雰囲気になるのだ。そんな状態で、いざ「今年最初の本何にしようか」、とか年始めの事何かも少しは意識してしまうから厄介だ。自宅にある本はある本の数もしれているし大体把握している。その中に読み直したい本は思い当たらなかった。かと言って寝てばかりいた重い身体で外出してまで本を買い求めに出る気も起きず、仕方なしに本の入っている竹の籠の中身を探る。
  
            

 「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」川端康成。「雪国」を手に取る。実際一番ピンときたが、本を開いて古本のため活字が昔の字面で、こういった昔の活字印刷ものは椅子に座って読みたいわよね、、となり、他には他には?と探していたら向田邦子、夏目漱石、ああ何かもっとこんな硬派な文章じゃなく、もっと何かなよなよしたかんじの湿っぽいかんじの、、と探していた手元に三島由紀夫。ビンゴではないが悪くないかもね。と、読むことになった。そういった訳で、今年最初に読んだ本は三島由紀夫「金閣寺」。             

           
         
        31日くらいは年末らしく年越しのお蕎麦を食べた。






                           

2012年11月1日木曜日

girl.


家にこもっていることが多い。わたしは比較的活動的に見られることが多いが、怠けるのには大した才能の持ち主で、休日は家にいてだらだらしていると気が付けばいつも夕方とか、下手すりゃ夜なんてことはしばしば。。友人の女の子からある休み、連絡が入って「まだベッドの中」と答えたら「世の中は動いてますよ」と叱られてしまう。「その叱り方良いですね」と心くすぐられ、あははと笑ってしまっている。後悔なんてしないのだ。寝て過ごしたり、何もしないことに然して咎める気持ちが無い。何かしなくては駄目な時だって沢山ある。辺りは何かしてなければならない事だらけだ。皆さんはどうなのだろうか。
 昨晩、大濠公園のスターバックスに久しぶりに出向いた。「世の中は動いていますよ」の彼女と会うため。最初彼女とだけ会う予定だったが、今月わたしはフランスへ逃避行するため、パリの地図や本を貸してくれる手筈になっていたまた別の女の子の友人も急遽来る事になった。もともと彼女等2人は友人関係で、「久しぶりだね」とお互いに嬉しそうに会話している。こんな時の人の表情を見ているとウキウキする。心臓のどこかで鈴が鳴る。「地図と本」の彼女は母であり、「世の中は動いてますよ」の彼女とわたしは独身で、でも何にも変わらない。会話の運びも考えていることも。アイデンティティの問題なんだなおそらく。昨晩の大濠のスターバックスは比較的に空いていたが、我々は外の席についた。少し寒くなって後で中に入ったが、2時間くらいは外で話していた。

 3人で話しながらもわたしだけ店内が見渡せる向きに座っていたから、店内が常に何気なく視界に入ってきていた。見る気があるでも無く、見たくないわけでも無くといった風で気が付いたらある女性の動きに目が止まっていることに気が付く。わたしよりは少し年上かといったかんじである。隣には女性よりはわりと年上と思われる男性が座っていて、二人でiPadを頻りに操作しながら、もの凄い至近距離で会話している。別にそのカップルがどうのこうのと言う訳では無く、わたしの目に止まっているのは女性の表情や仕草の方ばかりで、話を聞く時の目の輝いたかんじ、笑った時に両手が口元にいくかんじ、いかにも女の子らしくってかわいい。あんなことわたしってしてないだろうし、彼女がその仕草を狙って意識しているわけでは無く普段通りにしているのが分かるから、わたしはその時ほぼ全くの異生物としてその女性を見た。そうして、また周りを見ると、もう異生物に見える女の子ばかりなのに気が付いて面食らってしまった。初めて感じた感覚なわけでは無いが、少しショックを受け、気が付けば身体も随分冷えてしまったので、「中へ入ろう」と「世の中は動いてますよ」の彼女へ促し、「地図と本」の母である友人が帰った後、店内へ入り、その時感じた内容を出来る限り思った感覚と忠実に話した。彼女は「ユウちゃん(わたくしのこと)にだってあるよ」「全く同じじゃないかもしれないけど、ゆうちゃん(わたくしのこと)だって面白いこと考えて話している時とかね」と言っている。しかし、明らかにそれとは類いの違う。それは子供らしさの可愛さであって、明らかに違うではないか。わたしは女性を異生物と感じることの方が日頃から多い気がした。女性に恋する事はまず無いが、そういう意味と違っていて、何て言ったらよいか、説明し難い、男性も勿論異生物なのだが、男性の方がどちらかといえば近い生物の様に。
その日は帰ってからもそのショックから抜け出せず、何故こう思ってしまっているか考えた。わたしの歴史は家にあり、親にあり、この世に姓を受け「藤井裕」となった時から運命は決まっている様にしか思えなかった。殆どの事を、女の子だからしては駄目だも無かったし、逆に女の子だからしなくて良いもなかった。小学校の夏休みの合宿で、名前のせいで男の子のグループに入れられていて、女の子グループの先生の読み上げる名前にいつまで経っても出てこなかったことも、大学の語学専攻していた仏語でムッシュ藤井と呼び続けられたことも、すべてはこの世に姓を持った時に決まっていた。手の届かない天井に電機の傘を付ける時だってテーブルに椅子をのせ、その上に乗り爪先立ちしても、10センチばかり足りなくって、さらに椅子を重ね、不安定に膝をガクガクさせながらでも自分で取り付けてしまったことも、全部全部。。。そう生きざるを得ないことを。


                                                 Listen→   youtube.com/watch?v=HC4Tb727aGA



2012年10月19日金曜日

Tom and Jerry

トムとジェリーだったらどちら派かと聞かれたら、間違いなくトムと答える。彼はいつも損をしている様にわたしには見える。皆さんにも見えるでしょうね。ドジなんだな、、何かと。いつもジェリーにしてやられてしまう。自分でそんなところさえ気付きていない様なところが素敵である。自分自身に感じるシンパシーってやつね。太宰治に感じるシンパシーと同じね。でっかくでたけど。。





          Listen→http://www.youtube.com/watch?v=y62ApRsQ51g





I like

                  Barnett Newman





わたしの好きな形らしい。気が付けば、いろいろなところでアイコンとして使用していた。わたしにとって、安定した形。でっかくでた。いえ、誰かにとってもそう思う。共通して惹かれるものや、象徴性を感じてしまうものって存在するが、何故そう感じてしまうのか解明出来ているのだろうか。不思議と直面したら、明日はまた楽しい。




                                            Listen→  http://www.youtube.com/watch?v=U-otIju-Pd8




2012 happy new year in yamaguchi

「裏窓」。初回はなんとなく格好つけたくなっちゃて、文章が芝居染みていた。。。わたしは昔から力を入れ過ぎるといい結果を生まない。どこか適当に、の気持ちがわたし自身を自由にし、なんとなくそうやって今までもきている。他の人はどうなんだろうか。
と考えたところで、「裏窓」と言うべく、わたしの私生活で思ったこと書きたいことを率直に、いかに直球で書いてゆくか。道化を演じ抜きたい自身にとっては逆行する様なテーマを自ら掲げて。でも結果そうなると大した真面目なこと、格好いいことは書けないだろうなあ。まあよいか。
今年も10月半ばになって今年を振り返れるくらい経過している。写真をPCで整理してみるとお正月の写真がある。実家に帰った時の。わたしは毎年お正月の帰省は何が一番楽しみかってそれは絶対的に決まっている。そう、鰤のお刺身。母が皮をはいでその新鮮さったらとんでもない。この時ばかりは大量に朝、昼、晩続けて鰤を頬張るのです。もちろん、丹波の黒豆やお煮染めもうまいうまい。きっと母の味はわたしの永遠である。いつか母に伝えよう。文(ふみ)かなんかで。

 毎年の津和野のお参り。数年前のお正月、太宰府に仲の良い子と二人で初詣に深夜出かけた。その時悟る。太宰府の初詣、行ってはだめだ、少なくともわたくしは駄目であった。こんな事言うと罰当たりだが、メガホンを持ったおじさんの「はい、前へ少し進んでーー」というかけ声と共に、あのシステマティックに賽銭箱に向かって並んで歩行は馴染めなかった。国会の牛歩を思い出した。津和野はいい。津和野は本当に良い。わたしは田舎育ちなんだな、やはり。。山に抱かれて育ったから。
 帰りの車内で外ばかり見ている。父に朝早く起こされて出てきているもんだから、少し半開きな眼で怠惰なかんじで見ているのだが、心は満ち満ちているのだ。抱き込んでくれている山々も一体となって。津和野って良いし、山口って良い。

その日の晩はすき焼きでとっても美味しいお肉を食べたし。お肉が写っていないわ。だってこれはまだ準備中を撮ったもんだから。
朝起きたら、普段寒がりで部屋の窓越しに雪を見たりが好きではあるけど、実家に帰省時はそうはいかない。わたしの中の子供の時の血が騒いで、無償に庭等に出てみたくなる。パッジャマにツッカケを履いて。庭の木々。細い枝にも雪は上手に積もっているね。自然の織成すことってとても器用。勝てるわけない。そもそも勝とうとしてないけれど、画家は残そうとはしてきたね。ゴッホとか。今を逃すな、こんなに溢れているのに。



           Listen→http://www.youtube.com/watch?v=ufVV1H5pkA8




2012年10月18日木曜日

uramado

「裏窓」新宿ゴールデン街にこの名の素敵な酒場がある。






また新たにブログを始めてみた。ここはかなり内緒で始めているが、どこかやはり見て欲しいから、白鼠のブログに貼付けてしまっている。やはりわたしはミーハーで出たがりなのか。この写真は昨年、福岡に雪の積もった、とある日に撮ったもの。護国神社のちょうど上辺りの空。雪が一日降り続けた。どさどさ降っていた。この日は車中でも屋内にいても外ばかり見ていた。風景の変化に夢中になった。本当はオディロン・ルドンの仏陀という銅版画をこの書き込みのページの最初に持ってくるかでかなり迷ったが、気分で変えてしまえばいっか、、と思った。なので一時この写真にすることにした。今日から「世界の車窓から」では無く、「白鼠の裏窓」からの始まり。さてどこを走ろうか。どんな景色が見えるか。さて、何から書き始めるとするか。。ついついこんなフレーズを入れてしまうの、だめね。。。まあ今さら自分を否定しまい。さて、、、本気で何から始めようかしら。。。



浜も真っ白。こんな時の浮き足立った気分は何に例えようか。当てはまる良い言語がないか考える。深々と。深い。深く深く深く、しばらく考えてみたが、感情の細部を分析するのはやめた。よく分からない部分を自分の中に持つのはいいことだ。雪を見て美しいと思うのも解明しないからよいのだ。脳のこの部分が刺激され、、云々とかなってしまっては興ざめする。そうでなくても、普段から、美しいものには美しい、愛していることを愛している、可愛いものを可愛いとしか表現していないんだから、少なくともわたしは。そしてその言語表現の乏しささえ、実はそれが一番相応しいと思って発しているのだから。

                                   

        Listen→     http://youtu.be/I2wtmQkvX7A